神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 成海神社

成海神社

式内成海(なるみ)神社は、現在、名古屋市緑区鳴海町に鎮座する「成海神社」が遺存の社である。

現在、町名は「鳴海」と書くが、奈良・平安の文献には「成海」と表記している。

江戸時代には、一般に東宮・東宮明神及び東宮大明神と称されているが、これは、一説に熱田神宮の東の宮を意味するといわれている。

この神社を奉斎した氏族については明瞭ではないが、当時の地形などから、付近の大高と同様、海で生活をする人々であったと推定されていて、祭神からすれば、尾張氏ゆかりの氏族だろう。

【由緒】

社伝によれば、朱鳥元年(686)6月に神剣草薙剣が熱田に還された時、鎮座したといわれており、また、日本武尊の東征の縁由によって祀られたともいわれている。


【所在】

名古屋市緑区鳴海町乙子山85に鎮座する。

名鉄鳴海駅から北約800mに位置する。

社伝によれば、社地は、元当社の南600mの所に鎮座する天神社の境内付近にあったが、応永年間(1394~1427)に安原宗範が鳴海城を築いた際、その境内の大半が城地となったために現在地に移転したという。

鳴海は、江戸時代には東海道の三河知立と熱田宮宿の間に位置する宿場として賑わいをみせたが、この宿場は慶長年間(1596~1615)に成立した。

古代には、天白川がかなり奥深く入ってきていたと推測され、川下に当たる沖積層の低湿地帯は、潮流のある入り江として鳴海潟を形成していた。そのため、当時の居住地は一段と高くなった鳴海丘陵に求め、特にその山地と低地との漸移線には、縄文時代のが多くあり、弥生時代には、丘陵南端に城遺跡・電貝塚を残し、更に低湿地の「前の輪」にも居住したらしい。

古墳時代には、後期古墳が多くみられ、北方に大塚古墳・赤塚古墳・大根古墳・狐塚古墳・小塚古墳、南方にドンドン塚古墳・藤塚古墳などがある。

移転される前の旧社地は、丘陵の南端の小高い丘の上に位置しており、鳴海潟を臨む見晴らしの良いところであり、縄文から中世に至るまでこの地の中心地の一つであったと考えられる。

【祭神】 

日本武尊・宮簀媛命・建稲種命の三柱を祀るが、これら三柱の神を奉斎したのは明治以後のことで、江戸時代には、日本武尊の一柱であった。

なを、当社の南方に御手洗の御井の古蹟があるが、これは日本武尊が追っ手をのがれ、船出した所とつたえられていて、現在も、このことにより、毎年例祭の時に、神号を記した板を扇川に流す「御船流し祭」が行われる。

また、当社の西方に「鉾の木」というところに「矛掛松」があるが、これは、日本武尊が東征の時、矛を掛けて休んだところと伝えられている。

境内社は、拝殿前左側に、アパートのように部屋割りされて2棟建っていた。

一番拝殿に近い側から、神明社、熊野日向社、宝田社、白山社、山神社、道祖祓島社、もう一社、日割金毘羅社、次の棟は、氷上源太夫社、八幡社、八剣社、住吉社、今宮社、愛宕社、風神社、北野社、子安社がずらりと並ぶ。


社殿東側には東宮稲荷がある。


【祭祀】

例祭日は、10月10日で、「御船流し祭」が行われる。

この祭りは、当社創祀の縁由を伝承する神事とされるもので、祭礼の日に神輿が境外の天神社に神幸し、その際、鳴海駅前の扇川畔に行列を仕立て進み、祝詞奏上の後、御船板を川に流す。この時、若者が川に入ってこれを競って拾い、船霊、あるいは家の守護として崇める習わしがある。

この日、町内より山車が4台出て賑わう。

正月には特殊神事として「世様(よだめし)神事」が行われる。

【社殿】


昭和61年に御鎮座1600年祭の記念事業として、社殿が修造された。

鳥居は南東向きだが、社殿は南西向きに建っている。

本殿は流造りで千木・鰹木が載る。

その前面に、祝詞殿・拝殿があり、右方に直会殿(旧拝殿)、左方に参集殿が建てられ、これら三殿を翼廊でつないでいる。


神紋は、「桐笹」の紋。


【参拝記】

2010年6月27日、氷上姉子神社の境外末社朝苧社を見つけてから帰るにはまだ時間も早いので、式内社の成海神社へ向かった。

東へ、JR大高駅を過ぎ、名鉄鳴海駅を過ぎ、もう少し東へ高台を登って行くと成海神社があった。

思っていたより大きな神社で、面積2.4ヘクタールの社地は、「特別緑地保全地区」になっている。

手水舎の水の出口は、龍の飾りはよく見られるが、ここは亀で珍しい。

 

そして、なぜか「だるま塚」があった。